承平四年九月十九日(人皇六十一代朱雀天皇の御代)是の日、天気清郎で、お山は錦に輝き、山頂にある八幡様の大杉は天を摩し、神樹として辺りに威を放って居りました。 里人は手に手に御酒を携え境内に集まり、数々のお供を奉げ豊穣をお祈りし、酒を酌み交わして居りました。 丁度その時、一羽のつるが矢のように窮天より舞い降りて、大杉の天辺に止まりました。 里人は手を拍って大いに喜び、この鶴をよくみますと、嘴に一把の稲を啣えて居りました。やがてこの瑞鳥は、人々の頭上を、大きな輪を画いて舞い遊び、其の稲を神前に落すと、東へさして翔け去りました。里人は、之は祥慶を招くものと深く珍重し、この籾を翌年、神田にうえたところ、畦が隠れる程の収穫がありました。里人は大へん喜んで、大杉に五穀の神が降臨されたものとして、壇を築いて鶴の千歳を冠し、千代稲荷神社とあがめ五穀の神、倉稲魂(ウガノミタマノミコト)之命を御祭神として、お祀りいたしました。そして此の大杉のある山を鶴山と呼び、毎年神田で採れた新米をお供えする習わしとなりました。 森忠政が築城の折、一時城南の覗山に遷し、後に山北の八子に移されましだが、寛永十一年、森長継公の時、「鶴山に遷せば永世城の鎮護とならんと」との神告により、神祠を城郭の北炭の石垣の下(現在の地より五丁程上の処)に遷し奉り、神殿を新たに造営して上下一同篤く信奉致しました。 殊に森公により城の守護神として現在の地に祭祀りされてより、歴代の城主・庶民の篤き信仰を受けてきました。 津山の発展のために御降臨下さった千代稲荷神社、城の守護神である千代稲荷神社は津山市発展のための生産の神であり、市民の守り神であって、単なる稲荷信仰とは違うのであります。 今日、城山の重要性が強く認識され、之が開発は、津山市発展の根元と云われて居りますが、城山の開発、市の発展は先ず守護神である千代稲荷神社を尊崇するところであります。 昭和二十三年三月山田宮司に依り稲荷大神の根本なる伊勢神宮の外宮豊受神宮の分神と伏見稲荷神社の御分霊を合せ祭り正しき千代稲荷神社とし、郷土の霊神として勧請致し今日におよんで居ります。 昭和五十二年一月吉日 千代稲荷神社奉賛会 [ 看板より ]